超大国の指導者に宿った危うい統治のかたち
トランプ大統領の振る舞いを見ていると、ときにそれは、正常な思慮を備えた政治指導者の行動とは思えないほど、合理性を欠いているように映る。法の制約や国際協調を軽んじ、世界を長く支えてきた制度的な枠組みよりも、自らの衝動や威嚇を優先しているように見えるからだ。しかも、その人物が世界最大の大国の大統領であるという事実は、私たちの不安をいっそう大きくする。常識的に考えれば、これほど危うい統治は、もっと激しい恐怖や混乱を世界に引き起こしていてもおかしくない。
非常事態が「やっかいな日常」に変わるとき
しかし現実には、各国の首脳も官僚機構も市場も、驚きながらも、どこか粛々と対応している。そこに私は、現代という時代の奇妙さを見る。危機があまりに大きく、しかも単発ではなく連続的に続くと、人はそれを「非常事態」としてではなく、「やっかいな日常」として受け止め始める。感覚は麻痺し、危険は背景音のようになる。だが、その麻痺は必ずしも無関心ではない。むしろ、人間や社会が壊れずに前へ進むために身につけた、一種の適応なのだろう。
安定ではなく、不安定への適応としての静けさ
考えてみれば、トランプ氏の危うさは、単なる異常性そのものにあるのではない。むしろ、非合理に見えるふるまいが、交渉術や政治的圧力として一定の効果を持ちうること、そしてその手法が超大国の権力と結びついてしまったことにこそ、本当の不気味さがある。世界は彼の気まぐれに翻弄されているように見えながら、同時に、その気まぐれを前提として対策を積み上げてもいる。そこではもはや、安定は存在しない。あるのは、崩壊しないように辛うじて保たれた不安定だけである。
五十年後にこの時代を振り返ったとき、人々は、あの時代は人類の危機の入口だったと言うかもしれない。にもかかわらず、その只中にいる我々は、案外落ち着いているのだ。しかしそれは、危機が小さいからではない。危機があまりに大きく、あまりに長く続いたために、人々がそれを抱えたまま生きる術を覚えてしまったのだ。

