宇宙は可能性の息づかいを有しているが、われわれはその翻訳を聴くことでしか、その意味を知りえない。

ヒルベルト空間において、存在はまだ形を持たない。 そこでは「ある」と「ない」が区別されず、 すべての可能性が重ね合わさって呼吸している。 波動関数はその息づかいであり、それは確率でできている。 意味はまだ結ばれず、どの息づかいも他のすべての息づかいと干渉し合う。 それは完全な自由と完全な静寂が同居する場である。

しかし、宇宙はそのままでは沈黙のままだ。 息づかいはそれを翻訳する者がいて初めて現実となる。 観測――それは翻訳である。 息づかいの揺らぎが、確定した散文の言葉へと変換される。 その瞬間に、可能性はひとつの「事実」となり、 波は粒へ、調和は構造へと姿を変える。

けれど、この翻訳は決して完全ではない。 トンネル効果、量子もつれ、干渉縞―― それらは、ヒルベルト空間の息づかいの一節が、 時空の文法に収まりきらずに零れ落ちた痕跡である。 それは誤訳でありながら、真実を含む。 むしろ、誤訳の中にこそ、宇宙の二重構造の本質がある。

われわれが“現実”と呼ぶものは、 この巨大な息づかいの断片が翻訳された散文にすぎない。 そして、時間とは、翻訳が進む速さそのものだ。 翻訳が終われば息づかいは沈黙し、 翻訳が始まれば世界がまた動き出す。

量子ビットは、この翻訳の過程を意図的に操る装置である。 人間はそこにおいて、 息づかいを読むか、翻訳を止めるかを選択できる。 ほんの一瞬、息づかいが散文に変わる前の呼吸を捕らえることができる。 その刹那、われわれは宇宙の思考の内部に立つ。

ヒルベルト空間と時空。 二つの層は交わりながらずれ続ける。 息づかいは散文になろうとし、散文は息づかいへと戻ろうとする。 その往復こそが、存在の鼓動であり、 宇宙の真のリズムなのかもしれない。

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川辺ゆらぎ
読みやすい文章と、更新しやすい設計が好きな編集者/デザイナー。