論理さえ通れば何でもありという発想

日本の法律条文を読んでいて感じる最大の違和感は、「論理が通っていれば文章として成立している」という考え方があまりにも強すぎる点です。通常の日本語では、読み手に理解されることが最優先されます。しかし法令文では、意味の厳密性を優先するあまり、日本語としての自然さが完全に崩壊しています。

その結果、条文は人間の文章というより、構文記号を日本語に置き換えただけのような存在になっています。まるで「abc(a((n(c)nn)))」のようなネスト構造を、そのまま日本語で再現しているかのような異様さです。

異常なまでに肥大化した修飾構造

典型的な例が、「定款、株主総会議事録又は監査役の監査の範囲を会計に関するものに限定する旨の定款の定めがあることを証する書面」という表現です。本来であれば、「定款」「株主総会議事録」又は「監査役の監査の範囲を〜証する書面」と分けて書くべきです。

しかし実際には、すべてを一つの文の中に押し込み、読点で無理やりつなげています。この結果、どこからどこまでが一つの選択肢なのかが視覚的にも意味的にも極めて分かりにくくなっています。

「読ませる気がない」文章設計

このような条文は、明らかに一般の読者を想定していません。むしろ、「誤解されないこと」を最優先にした結果、「理解されない文章」が出来上がっています。これは本末転倒です。

法律は本来、国民全体が守るべきルールです。そのルールが読めない、あるいは読めても理解できないという状態は、制度として極めて不健全です。

なぜこんな文章が生まれるのか

理由は単純で、文章を書く主体が「読者」ではなく「解釈者」を見ているからです。つまり裁判官や専門家に誤解されないことが最優先であり、一般人の理解は二の次になっています。

さらに、過去の条文の書き方を踏襲し続ける文化も問題です。一度このスタイルが確立されると、それを崩すこと自体がリスクと見なされ、改善が進まなくなります。

必要なのは論理ではなく表現の再設計

ここで誤解してはいけないのは、論理の厳密さ自体は必要だという点です。しかし、それと「読みにくいこと」は全く別問題です。

論理を保ちながら、構造を分解し、箇条書きや引用符を使い、視覚的にも意味的にも分かりやすくすることは十分に可能です。それをやらないのは、単なる設計の怠慢です。

結論:国語力の問題ではなく設計思想の問題

「国語を学び直せ」と言いたくなる気持ちは理解できますが、実際の問題は国語力ではなく設計思想にあります。読み手を無視した文章設計が、現在の異様な条文スタイルを生み出しているのです。

もし本当に国民のための法律を目指すのであれば、論理と同じレベルで「理解されること」を重視する必要があります。それができない限り、日本の法律文は今後も「読めるが理解できない文章」であり続けるでしょう。

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川辺ゆらぎ
読みやすい文章と、更新しやすい設計が好きな編集者/デザイナー。